現在のベラルーシのポーランド人貴族の家に生まれたタデウシュ・コウスコは、ワルシャワの陸軍士官学校とパリの士官学校で優れた軍事教育を受け、軍事・土木建築を学んだ。 その後、ポーランドの将軍の娘たちの数学の家庭教師となり、娘の一人との駆け落ちに失敗した後、1776年にアメリカの植民地に逃れ、反乱を起こしたアメリカの植民地の人々のために尽くしたのである。 彼はまず、エンジニアとして大陸議会の住居周辺の要塞化を計画した。 1777年の春、コウスコはホレイショ・ゲイツ将軍のタイコンデロガ砦の軍隊に配属された。 彼が建設した要塞は、サラトガでジョン・バーゴインを降伏させるのに貢献した。 その後2年間、コウスコはワシントンが「アメリカの鍵」と呼んだウェストポイントの要塞を強化していったのである。 1780年3月、大陸議会はコウスコを工兵隊の長に任命した。 この昇進を受けて、コウスコは南方地域に派遣され、戦争の残りの期間を務めた。
1784年、コウスコはポーランドに帰国したが、政治的な理由でポーランド軍の地位を得ることができず、その後5年間、ポーランドの田舎で貧乏生活を送ったという。 1789年、コウスコは地元貴族の支持を得て、ポーランド陸軍の少佐の地位を得ることができた。 自由を重んじるコウスコは、トーマス・ジェファーソンに、自分の死後、自分の資金を奴隷の購入に充て、彼らに自由と教育を与えることを許可した。 ポーランド軍に所属していたコウスコは、ロシアをはじめとする外国勢力によるポーランドの分割に反対して蜂起したが、結局は失敗に終わった。 ロシアでの数年間の獄中生活を経て、アメリカに帰国したコジユスコは、英雄として迎えられた。 その後もポーランドは外国の支配下にあったため、コジオスコは祖国に帰ることなく、1817年にスイスで亡命した。